2014年12月24日水曜日

文章で描写することの大切さ

戦後くらいまでに書かれた純文学などを読んでいると,
自分自身の文章能力と照らし合わせて,
このようには書けないと感じることがあります。

先日,この違いがどのようなライフスタイルの変化に起因するのかを考えてみたのですが,
言葉よりも率直に伝えることの出来るツールが増えたためではないかと思います。
それは,写真であり,音楽でありです。
五感を使って認識する様々な外界の物事を,
言葉を介さずに直接見せたり,聴かせたり出来るようになりました。

個々最近,スマホが普及して,
そのようなことはより簡単にできるようになりましたから,
言語を介した表現力はこれからより一層衰退していくかもしれません。
だって,心に残るような写真を見つけたら。
「すごくない」といって見せれば事足りるのですから。

スティーブン・キングは,
「ことばというものは、ものごとの重要性を減少させてしまう」と言いました。
これはその通りです。
やはり,五感に訴えかけるものは,
それを直接提示できるのならば,それに勝るものはありません。

けれども,やはり,ことばの情報量や描写力というのは大変優れていると思います。
ことばは,五感以上にその人の文化背景を反映します。
何気なく使っている言葉の中には,暗に隠されている文脈がたくさんあります。
そういったものをたくさん含んでいるから,
最終的には,写真一枚よりもその光景をつぶさにあらわしたことばの方がより一層,
情報を持っていると思います。

ことばは,異なる思考や文化背景を持っている人同士が,
意思疎通を図るための唯一の手段だと思います。
様々なツールは私たちのグローバル化を助けてくれるけれど,
結局細部の詰めは必ずことばに行き着きます。

そして,そのことばは必ずしも共通の言語である必要はないのではないかと思います,
一番には自由に使える言語があるということです。

(10分)



食事と読書のアナロジー

知的生産の技術を読み終わった。
この技術というポイントは,知的生産のみならず大変重要なポイントだと考えている。

最近感じるのは,
ある現実的な目標達成に必要なのは,
情熱と技術だということである。
情熱を努力によって燃やすことは出来ないが,
技術というのは個人の努力によって,大抵のところまで訓練できる。

よく技術あるいはスキルと言った方が良いかもしれないが,
これを才能とひとくくりにしてしまう人がいる。
確かに技術習得において,才能は重要であるけれども,
現実的な問題を対象とする場合に,
才能が必要なほどのスキルを必要とする場面はむしろ稀である。

技術を身につければ,だれでも知的生産をすることが出来るということで,
何も,高度に訓練された人のみに許された特権ではないということである。

食事と読書のアナロジー

本の中で,それについての記述が少しあった。
筆者の考えであったか,もしくは誰かの引用であったか忘れてしまったけれども。

長い距離を走る。あるいは,筋トレをする。
何れにしても,自身が飢餓状態にあったのではままならない。
栄養状態が良いことが前提である。

知的生産に関しても,トレーニングをしようとするならば,
それなりに知的栄養状態が良くないとならない。

そういった意味で,
運動には食事が必須だし,
知的活動については読書が大切なのだという意見に,
同意しました。

2014年12月22日月曜日

英語長編論文・人魚の珈琲屋

長編の論文がようやくある程度にまとまってきた。
私は英語の文章を書く時,最近は英語で考えて書くことを心がけているのだけど,
今回は長編を書くにあたって,
英語では上手く論理が構築できなかったので,
日本語で結講格子をしっかりと作ってから英訳した。
今夜以降は細部の推敲にいよいよ入る。

やはり,自由に使える母国語というのをまず構築することが,
他の言語を操る上でのマストである。
これは,2カ国語以上を操るという環境で育たなかったものの場合で,
早くから様々な国で生活する必要のあった人には当てはまらないかもしれない。
話は飛躍するが,自由に扱える言語がないうちから,
グローバルという空虚な目標の名の下に,
英語を初等教育から始めるのには断固反対である。
まったく。

今週,人魚の珈琲屋で作業するのは一週間に2度目となる。
人魚の珈琲屋でドヤ顔で仕事をするやつがうざいという批判はあるが,
その批判はまったく筋違いである。

人魚の珈琲屋やその他チェーンの珈琲店は,
家でも仕事場でもない,第三の場所を提供していることに価値がある訳で,
そういったところで,高くて甘い珈琲を買って,
ただ帰るのでは本来の価値を享受しているとは言えない。

(15分)

文章にして書き留めること

たとえ,一文であったとしても,
見たことや感じたことを,
きちんと主述のはっきりとした文章にして残しておくことは,
大変重要なことである。

従って,出来るだけ感じたことを書き記したい。

とても当たり前のことしか書いていないが,
今日このように思ったのは,
梅棹忠雄著「知的生産の技術」の一説,

自分だけにわかるつもりの,メモふうの書き方は,しないほうがいい。1年もたてば,自分でもなんのことやらわからなくなるからだ。自分というものは,時間がたてば他人とおなじだ,ということを忘れてはならない。

という言葉がひどく心に響いたからである。

たくさんの仕事を抱えていて,
私は,知的好奇心を満たす方向へ,
読書をすることで逃避している。
今週は仕事納めに向けて,やり遂げないとならないことがいくつもある。
頑張って,良い年越しをしよう。

(7分)

2014年12月19日金曜日

画策

本日は,面白そうな情報を入手したので,
協力してもらえそうな人たちに連絡した。

様々な仕事が山積しているので,
先に片付けていかないと,
また,手を出しすぎて疲弊するいつものお決まりのパターンになってしまう。

どうでも良い案件は無視しよう。

(3分)

2014年12月17日水曜日

奇抜な事

大して奇抜じゃないのだけれど,
少し違うやり方をしたら,
変わったことをするのはやめなさいと注意されてしまった。

周りに合わせるということはとても大事なことだけれど,
合わせることと合わせないことの意義とをあまり考えずに,
他人がしていることだから良いことであるとしてしまうのは,
煩わしさと引き換えにいろいろな価値を見過ごしているのではないか。

集団主義の日本の良い面もあるので
あらゆるケースで 個性を主張し続けることは求めないが,
せめて知識労働をするような人々は,
一つ一つの行動の意味について少し考えても良いはずである。

―老いて頭が固くなってしまったときのための自戒―
(5分)

年末感

今年はいつになく年末感が無い。
もうあと今年も2週間しかないというのに,
まだ11月くらいの気分である。

師走というだけあって,本当は忙しいはずなのだけど,
緩急が大変良く付いていて,
仕事と余暇のバランスは良い。
しかし,新しい事にチャレンジしようとするには,
もう少し余暇があったら良いかな。

大仕事が目の前にあるのだけど,
なかなか火がつかない。
どうしても小仕事ばかり,先に手をつけてしまい。
いつも大仕事の方が後回しになってしまう。
そろそろ,大仕事の方を本腰を入れて片付けないと,
いよいよ大変なことになってしまうよ。
取りかかりが遅くなって,挙げ句の果てに仕事の品質を落とすような事は避けたい。

そういう意味では,投稿論文というのは幾分か気楽かもしれないと思った。
ある程度 “決まり手” というのがあるから,詰将棋じゃ無いけれど,
ゴールというのはある程度見通しが付く。

もっと大きな仕事というのは,
見通しが付いても,もう少し出来るかもしれない,
というのが続いて際限なくゴールが先に延びていって,
いつになったら終わるのか分からなくなってしまう事がある。
これは,人生にも言える事でしょうか。

ともかく,大風呂敷を広げたまま仕舞わないというのは,
これは何もしなかったと同じ事です。
終わりよければ全てよし。
首尾よく始めることだけでなく,綺麗に終わることにも注意を払って,
今年一年と来年を 迎えたいものです。

(10分)

2014年12月1日月曜日

ディギン・イン・ザ・カーツ

遅きに失した感があるが,
レッドブルミュージックアカデミーの「ディギン・イン・ザ・カーツ」が素晴らしい。



全何エピソードあるのかよく知らないけれど,
私は時間を見つけつつエピソード3まで見た。

日本のゲーム音楽をまとめた話だけど,単純にゲームのBGMとしてではなく,
多くの現代のポップに影響を与えているようで,
月並みな感想ではあるが,すごい。

これらの音楽は,音楽経験の長い人たちが作っていたというよりかは,
若い人が,自由に裁量を与えられていたようである。
やはり,若い人に自由にやらせるということも大切なのだと思う。


ファミコンの思い出

私が物心着いたときにはファミコンが我が家にあって,
やり込んだスーパーマリオブラザーズは相当上手いと自負している。
次にゲーム機が来たのは小一の時,初代ゲームボーイを買ってもらったときで,
その次はプレステが来たときなので,
多くの同世代が経験している,スーファミや64を私は経験していない。

当時のゲームボーイはモノクロだし,
ゲームの複雑さで言ったら,それでもファミコンの方が上だったから,
私はよくファミコンをしていた。

だから,当時は気にもかけていなかったけど,
ファミコンの電子音というのはとても耳なじみが良いみたいである。

ディギン・イン・ザ・カーツは,ゲーム好き・音楽フリーク必聴・必視である。