2014年3月3日月曜日

信心について

私は念仏を唱えない子供でした。
私の宗派ではお葬式の時など,皆で念仏を合唱することがあります。
お坊さんも10回念仏を唱えなさいというのですが,
そういう時私は口を真一文字に結んで,やり過ごしていました。

神様や仏様,幽霊や妖怪の類,はたまたサンタクロースまで,
それらの存在を,まあいるんだろう程度に考えている子供でしたが,
身の回りの儀式は私にとっては,
全て通過儀礼で,信心によるものではありませんでした。

科学を学ぶようになって,より強固に思うのは,
神様や仏様,幽霊や妖怪の類の存在は否定しないし,
それらへの畏敬の念は持ち続けるし,
通過儀礼もどちらかといえば律儀にすると思うけれども,
それは信心によるというよりも,日本人として育ったの文化的背景によるものであるということです。

いや,だった。過去形です。
今も上述の信心は変わらないけれども,
祖父の霊前だけは特別です。合わせるて手にも力が入るし,あの世があるのなら,どうかご冥福をと思う。

私の曽祖父の一人は,私に物心がつくかつかないかの頃に妻を亡くして,私が高校受験をしていた頃に自身も亡くなったのでした。
あの人の印象的な所作は,毎朝起きてはすぐに小さな仏様用の椀に米を持って,
長いお経を唱えて,それからごはんを食べるというところでした。
長いお経の後には,咳払いのような独特の発声があって,
それを私は面白おかしく感じていたのだけれど,
今考えると,毎朝亡き妻の冥福を祈る意味が込められていたのかなと思いました。