2015年2月18日水曜日

CD買う

本日は,でんぱ組のアルバム「WWDD」の発売日であったので,買った。
アマゾンは,きちんと発売日に届けてくれるのですね。


わたしは,アイドル音楽をなぜかよく聞くのだけど,
もともとは,昭和のアイドル歌謡をよく聞いていたのがきっかけだと思う。
わざわざ,こういう音楽を聴く理由は,
アイドル歌謡にはその時代の音楽の粋が集まっているからである。

でんぱ組のわりとキャッチーな曲の多くを玉屋2060%という人が手がけているのだけど,
これが耳に残って何度もループする。
もう,アイドルへの楽曲提供では売れっ子になってしまったけれど,
前山田健一さんの楽曲も含まれており,聞き応えがある。

音楽家,作曲家というとまずシンガーソングライターのイメージが,
わたしの中では先行するのだけれど,
こういう人たちの作品を聴いていると,なるほど,
作曲家が英語でcomposerたる所以が分かってくる。

ちなみに,多少癖はあるが,これの前のアルバム「World Wide Dempa」も良い。

2015年2月2日月曜日

雑感

大仕事はおおよそ片付く。
いま,持てる力はおおよそ出し切ることが出来た。
とくに根拠は未熟だけれども,手持ちの証拠から類推して得たアイデアについては,
わたしはかなり信憑性が強いと思っていて,
これはわたしの余命(研究者としての)があるのならば,
数年のうちにまとめたい仕事である。

また,これは気が向いたら書こうと思うが,
速読のコツを掴んだ。
いまのところ継続させての速読は30分程度が限界だが,
やはり一冊が早く終わるし,良い。

ランニングをするような意識で,
気分転換に読書が出来,その都度,語彙や文章構成の勉強にもなっていいこと尽くめである。

最近読んだ本


これは,コンピュターサイエンスの人たちが,
パーソナルな仕事を自前 (DIY) でやってITが隆盛したように,
バイオについてもDIYでおこなってやろうという,
科学者やらスタートアップやらの話を集めた本で,
わたしにとってはエポックメイキング的な位置づけになりそうな本である。
ケーススタディが多く,
哲学的,あるいは方法論に充実した本ではないが,
そもそもバイオパンクという発想自体が一読に値する。




梅棹忠夫さんの本の続きとして読む。
本当は先日の,知的生産...よりもこちらを先に読もうとしたのだけど,
知的生産技術の必要性があったので,
あちらから読むこととなった。

日本,ヨーロッパとその他アジア・中東の文明をそれぞれ第一,第二地区と分類し,
その起こりを,著者の生態史観で洞察した本書は,
ある分野で培った頭の使い方(この場合生物学)を,
全く別の分野における発達で見事に使いこなしているという点で,
わたしの目指す方向性と合致していて,
大変興味深かった。
知的生産...の成果というのをかいま見ることが出来る。


それにしても,ちょうど文明の起こりを洞察する本書で,
中東の辺りを読み進めている頃に,
大変痛ましい事件が起きてしまった。
痛ましいことが “既に起きてしまった” いま,

テロ批判,カルト批判
政権批判
自己責任論
宗教問題
クソコラ問題など

これから議論が進んでいくであろう問題は,複雑に絡み合っていて,頭が痛い。
いくつかの問題は,相対悪と絶対悪の問題や,
見方によって批判と賞賛という異なる評価を受ける行為など,
正義とは,悪とは,
あるいは良い行いとは何なのかということに対して,
問題を投げかけている。

様々な記事を読んでいて,自分の意見と一致するものもあれば,
全く同意できないものもある。
わたしは,同意の出来ないものであっても一方的にそれを排除することには賛成しない。
いずれにせよ,精神も生存も恐れの下になく,
それぞれが自分の考えていることを自由に語ることの出来る社会は,
大変重要である。

人間が人間であるための自由は,
命をかけてでも守られねばならない。

(30分くらい)

2015年1月16日金曜日

速読のコツ

本日,初めて速読のコツを掴めたような気がした。
いくらやり方を読んでもピンと来なかったが,体感してみると,
なるほど,こういう意味だったのかという感じ。

明日も試してみる。

2015年1月15日木曜日

年末年始・読書・雑感

年末年始,今年は連休が取りやすく,
それを余すこと無く使い切る形で,休みを取る。

長野の陽気は,実にゆったりとしていて,
それに,こたつの魔力も相まって,
いつものことながら,持ち込みの仕事はてんで進まず。

本を2冊読む。



それから,宮沢賢治のグスコーブドリを久しぶりに読む。

紅白のくわっちょのパフォーマンスや,
フランスの風刺画の問題など,
表現の自由とその範囲,受け手の解釈などを書きたいと思ったが,
上手くまとまらず,
その内に投げ出してしまった。

(10分)

2014年12月24日水曜日

文章で描写することの大切さ

戦後くらいまでに書かれた純文学などを読んでいると,
自分自身の文章能力と照らし合わせて,
このようには書けないと感じることがあります。

先日,この違いがどのようなライフスタイルの変化に起因するのかを考えてみたのですが,
言葉よりも率直に伝えることの出来るツールが増えたためではないかと思います。
それは,写真であり,音楽でありです。
五感を使って認識する様々な外界の物事を,
言葉を介さずに直接見せたり,聴かせたり出来るようになりました。

個々最近,スマホが普及して,
そのようなことはより簡単にできるようになりましたから,
言語を介した表現力はこれからより一層衰退していくかもしれません。
だって,心に残るような写真を見つけたら。
「すごくない」といって見せれば事足りるのですから。

スティーブン・キングは,
「ことばというものは、ものごとの重要性を減少させてしまう」と言いました。
これはその通りです。
やはり,五感に訴えかけるものは,
それを直接提示できるのならば,それに勝るものはありません。

けれども,やはり,ことばの情報量や描写力というのは大変優れていると思います。
ことばは,五感以上にその人の文化背景を反映します。
何気なく使っている言葉の中には,暗に隠されている文脈がたくさんあります。
そういったものをたくさん含んでいるから,
最終的には,写真一枚よりもその光景をつぶさにあらわしたことばの方がより一層,
情報を持っていると思います。

ことばは,異なる思考や文化背景を持っている人同士が,
意思疎通を図るための唯一の手段だと思います。
様々なツールは私たちのグローバル化を助けてくれるけれど,
結局細部の詰めは必ずことばに行き着きます。

そして,そのことばは必ずしも共通の言語である必要はないのではないかと思います,
一番には自由に使える言語があるということです。

(10分)



食事と読書のアナロジー

知的生産の技術を読み終わった。
この技術というポイントは,知的生産のみならず大変重要なポイントだと考えている。

最近感じるのは,
ある現実的な目標達成に必要なのは,
情熱と技術だということである。
情熱を努力によって燃やすことは出来ないが,
技術というのは個人の努力によって,大抵のところまで訓練できる。

よく技術あるいはスキルと言った方が良いかもしれないが,
これを才能とひとくくりにしてしまう人がいる。
確かに技術習得において,才能は重要であるけれども,
現実的な問題を対象とする場合に,
才能が必要なほどのスキルを必要とする場面はむしろ稀である。

技術を身につければ,だれでも知的生産をすることが出来るということで,
何も,高度に訓練された人のみに許された特権ではないということである。

食事と読書のアナロジー

本の中で,それについての記述が少しあった。
筆者の考えであったか,もしくは誰かの引用であったか忘れてしまったけれども。

長い距離を走る。あるいは,筋トレをする。
何れにしても,自身が飢餓状態にあったのではままならない。
栄養状態が良いことが前提である。

知的生産に関しても,トレーニングをしようとするならば,
それなりに知的栄養状態が良くないとならない。

そういった意味で,
運動には食事が必須だし,
知的活動については読書が大切なのだという意見に,
同意しました。

2014年12月22日月曜日

英語長編論文・人魚の珈琲屋

長編の論文がようやくある程度にまとまってきた。
私は英語の文章を書く時,最近は英語で考えて書くことを心がけているのだけど,
今回は長編を書くにあたって,
英語では上手く論理が構築できなかったので,
日本語で結講格子をしっかりと作ってから英訳した。
今夜以降は細部の推敲にいよいよ入る。

やはり,自由に使える母国語というのをまず構築することが,
他の言語を操る上でのマストである。
これは,2カ国語以上を操るという環境で育たなかったものの場合で,
早くから様々な国で生活する必要のあった人には当てはまらないかもしれない。
話は飛躍するが,自由に扱える言語がないうちから,
グローバルという空虚な目標の名の下に,
英語を初等教育から始めるのには断固反対である。
まったく。

今週,人魚の珈琲屋で作業するのは一週間に2度目となる。
人魚の珈琲屋でドヤ顔で仕事をするやつがうざいという批判はあるが,
その批判はまったく筋違いである。

人魚の珈琲屋やその他チェーンの珈琲店は,
家でも仕事場でもない,第三の場所を提供していることに価値がある訳で,
そういったところで,高くて甘い珈琲を買って,
ただ帰るのでは本来の価値を享受しているとは言えない。

(15分)