2014年5月24日土曜日

読書技術

情報の収集が律速

毎日,新聞を読んだり,
毎週毎週出る,トップジャーナルの論文や,
毎月出る専門誌の論文を分野が重なるところから読んだり,
また,時には関係のない分野の面白そうな論文を読んだり,

論文は最新の知見過ぎて理解できない場合は,
教科書をもう一度読み直したり,

全く別の分野の研究手法を学ぼうとすれば,
やはり,その分野の教科書を読んだり,

ネットを開けば,世界情勢や,生活のtipsみたいな記事も面白いし,
ホンマでっか的な記事も,リフレッシュには良い。

そのようなことをやっていると,
リーディングの時間というのが圧倒的に足りない。困る。
後半の,本業と関係のない情報収集を止めたとしても,
前半のマストな情報収集だけで,やはり普通に読んでいったのでは時間が足りない気がする。

そういうことを思いつつも,
具体的な解決法は見いだせないでいたのだけれど,
英語の勉強のときに読んだ言語教育に気になることが書いてあった。
それは,読書を重ねていくと速読や斜め読みといった類いの能力がつくということ(というか博士を取得するには必須というような書き方)である。

速読をかじる

何となく聞いたことのある速読というのは,
周辺視野を鍛えるといったもので,
本当にそれで中身を理解できるのかよと眉唾であった。

速読には,速読と言われるものとフォトリーディングと呼ばれるものがあるらしく,
周辺視野を鍛えると言ったものは後者にあたる。
ほぼ衝動買いでこれに関する本を買ってしまった。

読んでいくと,後半に行くにつれ,
本文を写真で撮ったように記憶しておいて,
寝ているときなどに理解が進むというような,
サブリミナル的方法が出てきてどうもうさん臭い。
ネットいろいろ調べていくと,フォトリーディングを習得する高額のセミナーとかが出てきて,やはりうさん臭い。

私はうさん臭い物には敏感なので,フォトリーディングについては完全に自分の中でヤバいものと認定した。

しかしながら,購入した本については後半のサブリミナル的なこと以外は,
とても役立った。

例えば,目次を読んで構成を頭に入れてから読むだとか,
節のどの辺りに重要な情報がありそうかとか,
他の速読本を読んだことがないから,比較にはならないけど,
なかなか目からウロコであった。

これを読む前後では2〜3倍は速く(本人比)内容を理解できるようになったと自負している。訓練でもう少しは早く出来そう。

読むのではなく,内容理解というところがミソかも。
従って,文章のリズムや余韻を楽しみたい文学作品には向かないのかも。

ここまで,フォトリーディングはうさん臭いと認定してきたのだけど,
私の母はこれが出来るから,またうさん臭い。

2014年5月21日水曜日

バックグラウンドでの処理

この言葉がマイブームである。
進化学とか生態学の難しい理論は,何度読み返してもよく理解できないが,ある時突然に完全に理解できる瞬間が来る。
そういうのは,もはや,メインの処理でいくら努力しようとしてもダメで,
ならいっそ,しっかりとインプットをしてからは,
しばらくそのことからは離れて別のことをやる。

PCを開いて,いくつもウィンドウを開いて,
バックで処理させつつ,
書類書くみたいなことするけど,
難しいことの理解なんかも同じような感じで,
バックで処理させたらいいんではと思っている。

ついでに言えば,寝る間際にそういう難しい文章なんかを読むと,
睡眠導入に良いし,
夢の中でまでそれに追われて,
翌朝目が覚めると,
見違えるほどに理解力が上がっていたりしてよい。

2014年5月20日火曜日

ガバナンス

所属団体の統治体制に辟易している。
トップに当事者意識が無ければ,ダウンにも無い。
これまでしょうがなく,様々な雑用をやっていたけど,自分の仕事が忙しくなって,面倒になってきた。
人の善意に寄生するシステムは持続可能ではない。
せいぜい,善意はオプショナルな事柄に対して期待すべきで,
本質的な運営や機能を善意に任せるから,仕事の不平等が産まれる。仕事の不平等が,出世や報酬で補償されるならまだ良いけれど,私の現状に限ってそれはない。
人に同じことを施さぬとこころに刻もう。

2014年5月19日月曜日

黒歴史について

無駄な,方向性を見失った情熱はしばしば,黒歴史的事象として発散されます。
黒歴史的事象は,その当時の当人に取ってみれば良かれと思ってやったことなのですが,
後々,見返すと目も当てられないくらいに赤面し,あわあわ言ってしまうのです。

ただ,年甲斐もなくこういった黒歴史を生産し続ける人が居る一方で,
過去の黒歴史を反省することが出来るということは,
黒歴史的事象を生産してしまった頃の自己よりも,
精神的,技術的に進歩しているというということなのでしょう。

本日,他人の黒歴史を見て,これはひどいと思ったのです。
たまたま先ほど,過去の日記を見てしまって,我ながらひどいと思いました。人のことを言えた立場ではないのです。

多かれ少なかれ,これからも生産の過程で黒歴史的事象を生み出してしまうかもしれませんが,
お手柔らかに評していただくとして,
自らにおいては自己の形成過程の遺跡として大切にしようと思います。
(つまり,恥に乗じて消去してしまわぬよう)

2014年5月3日土曜日

英語の勉強

来月,アメリカに行くことになったので,一人でもなんとかなるように勉強している。
NHKのラジオ講座やたまに同僚と話したり,文献を読んだり,それらは英語の勉強としてはそれなりに効果的なのだけれど,いざ,密なコミュニケーションをしようとした時には,もっと別なアプローチが必要なんでは無いかと感じている。

翻訳できる日本語

そこで,以前からウィッシュリストに入れてあって買っていなかった本を買って,読んだ。



本書は,日本人がもっている共通認識や,それに伴って可能となっておる曖昧な言語表現による意思疎通をよく認識して,即,翻訳できる日本語を普段から使おうというものである。

具体的には,
・主語を明確にすること
・概要から詳細という方向性をもって話をするということ
などであった。

こういうことは,論文を書いたり,研究のプレゼンやディスカッションをしていると,自然と身についてくることなので,自分自身,多少は現段階でもできているのではと感じた。

ラングエージ・アーツについて

本書の中で,もう一つ参考になったのは,
欧米諸国では,言語教育 (ラングエージ・アーツ) を初等教育のうちから学ぶというものである。ラングエージ・アーツにおける教育だと,コミュニケーションに重きが置かれる一方,日本語の言語教育は,どちらかといえば文学的な表現を学ぶように思う。
この辺の話は,最近の小学校での英語教育の件といい思うところが有るが,それはおいておくとして,,,

言語教育は,大きく言語技術読書技術に分けられる。この読書技術というのが,私の琴線に触れた。これについて,ほぼ衝動的に気になった本を買って,読んだので,後日メモしようと思う。

2014年4月13日日曜日

新年度が始まりました

4月になって新年度が始った。
祖父の四十九日や高知での学会や引っ越しが,全て終わって,何だか肩の荷が下りたようで,ローポジティブな状態になっている。春の日和も相まって,心地よい。

今思えば,昨年末くらいからはずいぶん無理をしていたのだなと感じる。様々なことを受け流すことが出来なかったし,不安に勝てなかったし,自分の将来を相対的な尺度でしか考えることが出来なかった。何をするにも,自分の身を削らないでは出来なかった。

この辺,今は根拠の無い自信というやつで,こころの平安が保てていて,実にグッドだ。

高知での学会

高知はなかなか良かった。最初,街中の路面電車の乗換がよくわからずに,あくせくしたけれどそんなことは,自然や歴史など他の優れたことに比べれば大したことはない。

初めて見る,四国の林は私が育ってきた東日本のそれとはずいぶん違って,私の目にはとても面白く映った。また,山の斜面にはそこかしこにニホンミツバチの巣があって,どのように活用しているのか分からなかったけれど,実に興味深かった。

本当は,馬路村の農協のやり方にとても興味があって見に行きたいと思っていたのだけど,真面目に学会に出ていたし (?),学会後は別件で早く帰らねばならなかったりで,叶わなかった。

地方の魅力

丁度,「里山資本主義の経済」という本を読んでいて,まだ,頭の中が整理されていないけれど,地域の独自性というものがこれから価値を持ってくるのか,いや,私の願望として持ってほしいと思った。

こころが落ち着き始めているところで,徐々にインプットを増やし始めていて,ようやくアウトプットも少しは出来るようになってきた。このままローポジティブからハイポジティブに持っていけるよう,自分を律して量的,質的に優れた生産を心がけたい。

2014年3月3日月曜日

信心について

私は念仏を唱えない子供でした。
私の宗派ではお葬式の時など,皆で念仏を合唱することがあります。
お坊さんも10回念仏を唱えなさいというのですが,
そういう時私は口を真一文字に結んで,やり過ごしていました。

神様や仏様,幽霊や妖怪の類,はたまたサンタクロースまで,
それらの存在を,まあいるんだろう程度に考えている子供でしたが,
身の回りの儀式は私にとっては,
全て通過儀礼で,信心によるものではありませんでした。

科学を学ぶようになって,より強固に思うのは,
神様や仏様,幽霊や妖怪の類の存在は否定しないし,
それらへの畏敬の念は持ち続けるし,
通過儀礼もどちらかといえば律儀にすると思うけれども,
それは信心によるというよりも,日本人として育ったの文化的背景によるものであるということです。

いや,だった。過去形です。
今も上述の信心は変わらないけれども,
祖父の霊前だけは特別です。合わせるて手にも力が入るし,あの世があるのなら,どうかご冥福をと思う。

私の曽祖父の一人は,私に物心がつくかつかないかの頃に妻を亡くして,私が高校受験をしていた頃に自身も亡くなったのでした。
あの人の印象的な所作は,毎朝起きてはすぐに小さな仏様用の椀に米を持って,
長いお経を唱えて,それからごはんを食べるというところでした。
長いお経の後には,咳払いのような独特の発声があって,
それを私は面白おかしく感じていたのだけれど,
今考えると,毎朝亡き妻の冥福を祈る意味が込められていたのかなと思いました。