何かエネルギーが足りなく感じるとき,
わたしはよく岡本太郎の作品を観ます。
かねがね,行きたいと思っていた
岡本太郎美術館へ一人で行ってきました。
美術館というのは,
特に心の保養の目的で行く場合には,
一人で,自分のペースで,
行くのがよいと思います。
岡本太郎美術館は生田緑地というところの最深部にありました。
道のりには様々な文化的展示物の出来る施設があって,
川崎は文化を大切にする自治体なのだと思いました。
緑地なのでこういう林のようなところも抜けて,
ようやく辿り着く。
何を考えて造ったのか
美術品を観ているとき,
わたしは最初一つのことを考えていました。
岡本太郎の作品といえば,
抽象的で大胆な色使いの絵画や,
非常に独創的な形の彫刻が有名ですが,
それらをどんなことを考え作品を造っているのかということです。
岡本太郎という人が
とてもセルフプロデュースの上手な人だと思ったので,
ああいう絵や造型物が,
芸術だともてはやされて,
高い値段で取引されているのを,
斜めから見て楽しんでいたのではないかと感じたのですが,
作品を観ていくにつれそうでは無いのだろうなと感じました。
言葉で説明の出来ることでは無いのです。
まさに百聞は一見に如かずといった感じで,
わたしの表現力では百聞でも表すことが出来そうも無いのですが,
そう思ったのでした。
一つにはそういうくだらないことを考える余裕も無いくらいに,
人間の表現や文化の限界に向き合っていたのだろうなと思います。
また,芸術家としての面だけでなく,
思想家としての岡本太郎を知ることが出来ました。
既存の文化への尊敬と未知への挑戦の姿勢を,
わたしも真似したいと思いました。
TARO賞
岡本太郎現代芸術賞展の展示もありました。
現代美術というのはよく分からなくて,
いままで,敬遠してきたのですが,
前述の通り,何か論理的な説明を求めずに,
一見の後に残る余韻を大切にするスタンスで
見ることにしました。
わたしが気になったのは,
部屋 (作品) の中に,観衆が靴を脱いで入り,
さまざまな展示品の音を聴くというものでした。
どこが気になったかというと,
わたしが靴を脱いで作品の中に入って音を聞いているとき,
監視の方が靴を揃えてくれたことです。
わたしの靴はつま先の方を出口の方へ向けて揃えてくれたのに,
わたしの同時に入った小さい女の子の靴は,
ちょうど,駆け足で部屋に入っていったように,
左右互い違いに直したのでした。
あぁ,これは作品の中に入っている人たちには,
音を聴かせる体験 (作品) を与えているけど,
外から作品を見る人には音を聴いてる私たちも作品の一部として映っているのだと思いました。
そしてそれは,意図せず生まれたのではなく,
作者の意図によって生み出されているのだと感じました。
まだまだ表現には可能性が有ります。
ガチャ
お土産売り場を観ました。
派手な柄の岡本太郎ネクタイ買ったろうかと思いましたが,
またそんなものを買って,という未来が予想できたのでやめました。
岡本太郎の作品のミニチュアが入っているガチャガチャをやりました。
ちなみに太陽の等のストラップは,
リングが一日で壊れたので,
イヤホンジャックに付けられるストラップの部品を,
ロフトで200円くらいで購入しました。
ガチャガチャではピグモンとカネゴンのハイブリッドが当たりました。